よくお客さんや知り合いから「もともと、コンピュータとか好きだったのですか?」と聞かれる。ビン底メガネで「オタク」っぽい風体の人間が、鼻の穴広げて「あぁ、その場合はあれをこうして…」と、操作方法などウンチクをたれていれば、誰だってそう思うだろう。
が、しかし。何を隠そう私は自他共に認める機械音痴。今時これだけ機械類に疎い人間も、そう多くはないだろう、と思っているほどに…。なにしろ私はビデオデッキの「留守番録画」のやり方さえ知らない(テレビを見る時間さえないのに、ビデオなんてとても、とても…)。
なんとか構造が理解できるのは、せいぜい懐中電灯まで。ゆえに我が家で機械類の故障などが発生した場合は、工具入れからドライバーを持ち出すのは決まって女房の役目になっている(笑)。
その私ですらなんとか使うことができ、なんと、それでお金をかせぎ、生活を成り立たせているコンピュータ、それがMacintoshだ。
今から7年ほど前の1993年、当時つとめていたデザイン会社「D社」の社長がMacintosh導入を考えはじめていた。当時はMacintoshが少しずつデザイン会社に導入されはじめた頃で、どん底の経営状態で、社会の底辺をかろうじてはいずり回っていたあの零細企業の社長にしては、ずいぶんと思い切った決断だったと思う。
で、私はと言えばもちろん反対派。機械音痴のせいもあったが、「計算器の親分なんぞにデザインされてたまるか!その金があるなら、まず未払いの給料からなんとかしろ!」と反Mac導入派の先頭を切っていた(本当にあの会社は貧乏だった。一度電話を止められたことがあったくらいだ。)。
しかし最終決断はやはり経営者である社長がくだすもの。私の知らないうちにMacintosh導入は決定され、ある日突然その白い箱(よりによって後々まで語り継がれる不幸なマシンII-fx)は狭い社内に我が物顔で鎮座していた。
腐っても鯛、貧乏でも経営者。あの社長の偉かったところは、とりあえずMacintoshを使える社員を「育てる」ことに重点を置いたところだ。マック導入推進派の社員1名を「とにかく使えるようになれ」と半年間、日常業務から引き離しMacintoshの勉強に専念させ、その社員が使えるようになったら他の社員へ教える、という計画を目論んだ(それは後に、操作方法を覚えた社員から順に、退社独立するという結果を招くことになるが…)。
Macintosh担当に任命された社員がクソがつくほど真面目な性格だったこともあり、試行錯誤しながらもなんとかMacintoshで仕事らしいことが出来るようになった。が、だれも「今度は自分が」とは言い出さない。なぜならMacintoshの使い道がなかったからだ。当時社長はMacintoshをビジュアル制作のための道具として位置づけており、レンタルポジの使用料を払う代わりに「Photoshopなどでオリジナルの画像を制作し高値で売る」ことを目的としてた。手動写植機オペレータ2名、フィニッシュマン2名、かつ写植機のリースも抱えていたあの会社の社長の頭には、DTPという概念は無かったようである。もっともFONTをはじめ、今のようなDTP環境も整ってはいなかったが…。
不況のまっただ中、レンタルポジとさして変わらない画像に、高値で注文するクライアントはそうはいない。つまり需要がない。典型的な貧乏ヒマ無し会社の社員は、金の稼げないMacintoshは「興味はあっても仕事時間をさいてまで覚えなければならないシロモノ」ではなかったのだ。性格の悪い私は、内心「ソレ見たことか」と思っていたほどである。
当時その会社のクライアントに旅行代理店があり、私はその会社の旅行パンフレットの制作を担当していた。旅行パンフには細かいマークが「これでもかっ」というくらい使われている。それを一つ一つペンでトレースして、紙焼き機で増幅させ、版下に糊で貼る、という作業は避けて通れない。版下製作は「フィニッシュマン」と呼ばれる専門の社員が社内に2名いたが、忙しい場合はデザイナーが代わりにやることも多い。
その日、私は「添乗員同行」というマークをトレースしようとしていた。するとMacintosh担当の人が横から
「あ、それやってあげようか?マックでやれば簡単だから。」
と言ってきた。正円と俵型を組み合わせるだけの確かに簡単な物なので、手でトレースしてもたかが知れていることもあり、
「いや、いいっすよ。この程度10分もかからないから」
と、申し出を断り、厚トレ(厚手のトレーシングペーパー)に砂消しゴムをかけ始めた(トレースをする際の準備)。
1〜2分した頃である。砂消しをかけ終わり、ロットリング(グラフィックペン)を手にしたところで、また横から声がかかった。
「これで良かったら使って」
「えっ?」
正直、驚いた。そこにはまさにこれからトレースしようとしているマークがプリントされていた。ご丁寧に2〜30個きちんと並んで…。
「うそっ!もうできちゃったの…?」
アンチマック派の私を見下ろしながら、その人は勝ち誇ったように
「この程度でいいなら、いつでも言ってね〜」
と言い放ったのであった。
これをきっかけに私のMacintoshへの見方が、180度グルリと変わった。それはもう、節操も無いほどに…(笑)。
こんな便利な物がほとんど仕事に使われず、おもちゃと化しているのは、あまりにももったいない。版下製作機でもいいじゃないか、これなら1文字「取るツメ」の指示も怖くない。アンチマック派返上、これを自分で使えるようになりたい。日に日にそう思うようになっていた。しかしあまりにも貧乏な会社。自分用に2台目のMacintoshを導入出来るはずもない。そこで昼休みや業務時間終了後など、スキを見ては少しずつII-fxをいじるようにした。ほとんど孤立しかけていたMacintosh肯定派のその人は、反対派の私が興味を持ち始めたことがよほど嬉しかったらしく、自分用にローンを組んでまで買ったマシンを会社へ持ってきて「好きなときに使っていいよ」とまで言ってくれた。LC-II(68LC020)だった。(ありがとう、Tさん。あの時のご恩は一生忘れません。)
いや、ハマった。夢中になってMacをいじった。搭載可能メモリ10MB、HDは100MB、モニタは12インチ。今にして思えばとてつもなく非力なマシンだったのだが、一つ一つの操作をぎくしゃくしながら扱うには、ちょうど良かったのかも知れない。
まずIllustratorをいじりだした。当時バージョンは3.2。プレビューモードで作業は出来ず、パスファインダーはおろか、レイヤーすらも無い。アートワークで作業をし、確認のためにプレビューにする。おかげで最初に覚えたショートカットは、プレビュー・アートワークの切り替えだった。非力なマシンはプレビューモードに切り替えると、画面の書き換えに時間がかかり、まるでアニメーションを見ているようで、それもまた楽しかった。
機械ぎらいで、あれだけアンチマックを唱えていた私がマックをいじり始めたことに、他の社員が「だったらオレもやってみようかな…」と言い出したが、いや、私がほとんど占領していた。って自分のマシンではなかったのだが…。
幸いワープロ専用機はある程度できたため、タイピングも苦にならず、あれよあれよでIllustratorを覚えていった。それを見て社長は自分の考えが正しかったとご満悦である。
しかしその頃、会社の経営は極限状態に達していた。結果、数名のデザイナーに解雇が言い渡された。いままで一緒にやってきた仲間が、そういう事態で去っていくのはとても辛い。(このことは、またそのうち書くことにする。)その去っていった仲間のうちの一人が、本格的にMacintoshを導入している会社に再就職した。彼もまたアンチマック派だったのだが、そこでMacintoshに目覚めたらしい。その彼から色々と情報が入ってくるようになった。なんでも「ユーティリティ」という便利な物や、楽しい物が沢山あるらしい。そのうちいくつかをこっそり持ってきてもらった。すみません。違法ですね。今はもう使ってないので許してください…(笑)。
気に入ったのが「Eyeballs」と「The Grouch」。特にGrouchは新鮮だった。「ゴミ箱を空に」を選択するとゴミ箱の中からセサミストリートのキャラクターが出てきて、歌を歌いながら手を振ってくれる、というもの。
「か、かわいいじゃないか…」
それまでのコンピュータのイメージはこんな愛くるしい物じゃなかった。カスタマイズと言って、自分仕様に簡単に改造(?)出来るのもマックの魅力の一つだと教わった。なんだかマックって、ロールプレイングゲームをしているようだ。「木村は便利なユーティリティを手に入れた。すばやさが3上がった」みたいな…。
しかしこの手のものを勝手にインストールしたことがまずかった。そりゃそうだ。自分のマシンじゃないんだもの。持ち主のTさんが怒って外してしまった。もちろん謝ったのだが、なんだか悔しい。「気兼ねなく使える自分専用のマックが欲しい」と思うようになったのもこの時である。
貧乏会社の社員が貧乏でないはずがない。自腹でMacintoshを買うのは、そうとうの決意が必要だ。まずはご他聞にもれず女房を説得してみる。
「なんで仕事に使う物を社員の給料で買わなきゃいけないの?会社に買ってもらいなさいよ。」
とは女房の意見。もっともである。だいたい、ついこの前まで「マックなんか入れてさぁ、給料を先になんとかしろよなぁ」と目の前でグチっていたのは私だ。ましてこの頃は女房もMacintoshをよく知らなかった頃である。思いあまって、確か12チャンネルでやってたタモリが司会のTV番組の懸賞に、毎週応募ハガキを書いたりもした(毎週1台Macintoshが当たっていた)。もちろん当たらなかった。それを見かねたのか、とうとう女房が折れ、Macintosh購入が許された。予算は30万円。
悩みに悩んだ末、LC-575を購入することに。まだ独立は考えていなかったこともあり、会社の自分の机に置いてもアナログ作業のじゃまにならないコンパクトボディが決定打となった。モニタ一体型なのでモニタを買う必要もなく、その分メモリが増設できるというのも大きかった。 奮発してメモリは16MB増設して計20MBにした。当時メモリは非常に高価で、だいたい1MBあたり7000〜10000円近くしたと記憶している。HDは230MB。少々予算オーバーしたものの、これでGrouchも堂々と入れられる。(なんて高いユーティリティでしょう…笑)やがてこの575を相棒に退社、独立の道を歩むことになる。
独立後、さすがに13インチのモニタでB3のチラシを作ることに限界を覚え(笑)、女房もMacintoshやりたいと言い出したのをきっかけに2台目のマシンを購入。予算はやはり厳しかったので、せめてモニタがセパレートタイプの同等製品ということで、LC-630と17インチモニタ。メモリ、HDはフルに積んで36/730MB。これは未だに現役でプリント専用マシンとして、ときどき悲鳴を上げながらも事務所で活躍している。翌々年、少々儲かったこともあり、思い切って当時のハイエンドマシンPowerMacintosh9500/200を事務所用に、女房用に8500/180を購入。あこがれの21インチモニタも2台まとめて購入。同時にLC-575はお客さんに1万円でゆずった。そして今年あたりG4を狙っている。
思えばあの「添乗員同行」マークが私の人生を大きく変えたのかもしれない。しかし、これだけは言える。あの時Macintoshをやって良かった。あのまま意地をはってアンチマック派を貫いていたら今頃何をしていたのかわからない。何よりこんな機械音痴ですら、それなりに使えてしまうコンピュータMacintoshってすごい。
だからほら、いまだにパソコン食わずぎらいの人、だまされたと思ってとりあえずやってみなさいって。決断しきれないなら私が背中を押して上げますよ………ポンッ!
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