HITORIGOTO
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ポストは赤く塗れ



 この前、久しぶりにデザイン会社時代の先輩に会った。色々と思い出話や最近の話題で盛り上がったのだが、その中で少し気になる話題があった。

 現在、先輩はフリーでデザイナーの仕事をしている。その腕を買われて、お客さんから大きなな信頼を得て順調に仕事をこなしている。ところがそのメインのお客さんの会社の上層部から「他のデザイナーのデザインも見てみたい」という話が持ち上がり、普段、無条件に先輩の所へ来る仕事がコンペになってしまったそうだ。もちろん先輩としては面白くない話であるし、その会社の担当者も、先輩に対して申し訳なさそうにずいぶんと謝ったそうだ。で、仕方なくデザインカンプを提出、プレゼンテーションしたのだが、これが落ちてしまったらしい。

 先輩は今まで長い時間をかけて、その会社に対してデザインの方針を提案し続けてきた。その中で色々と試行錯誤しながら、細かい取り決めを作り、ビジュアルの統一性から、文章の表現、はては「この言葉は漢字で表記するか、ひらがなにするか」まで、その会社におけるハウスルールを担当者と作り上げ、その枠を外さないように守り続けてきた。今回のプレゼンテーションも、そうした流れに沿って制作したという。
私は先輩のデザインもコンペ相手のデザインも見たわけではないので何とも言えないが、先輩は決して惰性にまかせたヤッツケの仕事をプレゼンする人ではない。実際、相手のデザインを見たとき「勝った」と先輩は確信らしい。勝ったというより、「これではこの客(会社)には合わなすぎる。ハナにもかけられないのでは?」と思ったそうだ。……なのに落ちた。

 先輩の言葉である。
ポストは赤く塗りましょう、とその会社と決めた。それをかたくなに守ることで「ポスト」というイメージを固めてきた。少しでも朱に傾いたりピンクに寄ったりしたら、何度でもやり直してきたし、またやり直された。そうしてやっとイメージが浸透し始めた頃、それを知らないデザイナーが突然ポストを青く塗った。当然、ポストは「赤」というイメージを展開している最中なんだから「それはまずい」とストップがかかるはずの所を、これまた、そう言うことを理解していない会社のお偉いさんが「たまには青もいいなぁ」と決めてしまった。つまり、そう言うことだ。

 これには2つの考え方があると思う。デザインっていうのは確かに惰性になりがちだ。気を抜くと「この前やったのとあまり変わらない」というものになってしまうことがよくある。それを避ける手段として、デザインコンペは企業にとって有効な手段だろう。デザイナーは出来る限りクライアントやユーザーに対して新しい刺激を提案し続けなければならないわけで、それはとても過酷な作業だが、それもデザイナーの仕事だ。そしてそれを怠けたとき、仕事は自分の手を離れ他者のもとへ移ってしまう。先輩が自信を持ってプレゼンテーションしたデザインは、クライアントにとってはそれほど刺激を感じることが出来なかったのかもしれない。ポストは赤く塗りつつ、さらに客を納得させるだけの刺激を盛り込めなかったことがコンペの敗因と言われたら、多分何も言い返せないだろう。自由主義経済なのだから、客が他者のデザインを選んだ以上、こちらは何一つ文句は言えない。

 もう一つは、むやみに刺激ばかりを追い続けるより、自分のスタンスを守り続ける事の方が大切だという考え方。確か銀座には青いポストがあったと記憶している。街並みの風景からはみ出さないようにと考えられたのだろう。そして案の定、そのポストは目立たない。まぁ、ポストにはすでに「赤い」というイメージが十分すぎるほど浸透しているわけだし、近所の人間が必要とするケースがほとんどだから、銀座の人が「青いけどポストはあそこにある」と認識していれば問題ないのだろうが…。しかし先輩のお客さんの場合は話が違う。ようやくイメージが浸透してきた所なら余計そうだ。イメージを浸透させるという行為は、一朝一夕に出来るものではない。ポストに限らず例えばコカコーラの缶が青かったら、やはりそれはコーラには見えないし、黒い消防車が来ても道を譲らないかも知れない。青いポストは確かに一見おしゃれに見えたし、ある意味、私の目にも斬新に映った。しかし「ポストを青く塗ってみる」という発想を持つことも難しいが、「赤を守り通す」という行為も大変なことだ。

 先輩は「そうあるべきだ」と長い時間をかけて頑固にルールを守り続けてきた。そして、その積み重ねてきた努力を、あっさりと否定されたわけだ。先輩のやるせない気持ちが伝わってきた。
どちらが正しいのか私にはわからない。でも、色んな意味でデザインってやはり難しい。

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