バレンタインデーにチョコレートを贈るという習慣は、確か○リナガの社員の人が考え出したものだったと記憶している。あくまでビジネスとしての発想で生まれた儀式だ。別にこれを悪いとか思わないが、ビジネスを原点に生まれた物は、当然ビジネスとしての原理が働く。そしてそこには、それにまつわる色んな人たちが関わることになる。
数年前の夏のことだ。珍しく明け方近くまで仕事をしていた私は、どうしても風呂に入りたかったのと、少しでも布団で寝たかったのでタクシーで帰宅することにした。
神楽坂で捕まえたそのタクシーの運ちゃんは妙にハイな人で、何かと私に話しかけて来た。私は少しでも寝ていたかったのだが、仕方なくおしゃべりにつき合うことになった。
「お客さん、今までどこかで飲んでたんですか?」
「いえ、仕事です」
「あ、そうでしたか、大変ですね〜。いったい何の仕事をなさってるんですか?」
「いや、まぁ、印刷関係の仕事です」
「印刷関係ですかぁ。こんな時間までお仕事とは…。儲かってらっしゃるんですねぇ」
「いや、僕は下っ端ですから」
「いやね、実は私も最近この商売始めたんですけど、昔、印刷の仕事してたこともあったんですよ」
「はぁ、そうなんですか」
以下、運ちゃんの多少の誇張と私の記憶違い、および曖昧さがあると思うが、運ちゃんが話した内容。
何でもその運ちゃんは小さな町工場みたいな印刷屋さんに勤めていたそうだ。で、ある日、そんな小さな会社には珍しい、かなりメジャーな大口の仕事が舞い込んで来たそうである。その仕事とは、とある有名ブランドのバレンタインデー用チョコレートのパッケージ印刷。小さな小さな町工場としては、この仕事の受注は一大事。儲かるのかどうかは知らないが「メジャーな仕事をする」ということが、数名の全社員のハートに火を付けたそうだ。
彼らは考えた。自分たちの仕事を認めて貰いたい、その一心で。デザインは決まっていたそうなので、ならば精一杯高級チョコレートにふさわしいようにと、紙を考えたそうだ。そして選んだのが今まで使ったことのない、いかにも高級そうな紙。それを、やはり今まで注文したことの無いようなロットで紙屋さんに注文した。
仕上がりは職人魂を満足させるに充分な、すばらしい物だったと言う。「いい仕事をした」そう思ったそうだ。その時は…。
数週間後、いよいよバレンタインデーも間近に迫ったある日。クレームが入った。チョコレートが「臭う」。原因はパッケージの「紙」。どうやらチョコレートの成分と紙の成分が反応してしまったらしい。全てが裏目に出てしまったというわけだ。
そして売り物にならないチョコレートを全て引き取り、賠償金を払い、印刷屋さんは倒産。数万円の退職金を今まで一緒に頑張ってきた仲間に払った後、社長さんは夜逃げ。今はどこか田舎の旅館で住み込みで働いていると言う。
「社員思いの人で、いい社長でしたよ」と運ちゃんは言っていた。「近所の人や、知り合いにチョコレート配ってまわりましたよ。バレンタインデーに。むさ苦しい男数人で。ははは。このチョコがまた、ちょっと臭うけど、美味しくてねぇ…」
すっかり夜が明けた頃、タクシーは私の自宅近くに着いた。
2月14日。女房がくれたチョコレートを食べながら、ふとあの運ちゃんを思いだした。今日もどこかを走っているのだろうか。
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