試合終了を告げるホイッスルが雨の宮城スタジアムに鳴り響いた。2002年6月18日。サッカー日本代表チームが、W杯決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れた瞬間。私は「これぞフリーの特権」とばかりに、その日仕事を早々に切り上げ、自宅でテレビ観戦していた。テレビは冷たい雨に打たれながら肩を落とすサポーターと選手達を映し出していた。
スポーツを見るのもやるのも、私はそれほど好きな方ではない。サッカーだってそれほど好きだったわけでもない。現に今でもルールさえよく解ってない、いわゆる「にわかファン」だ。
サッカーを見始めたのは8年前のW杯アメリカ大会の地区予選だった。Jリーグが始まった年で、日本中にサッカー熱が広がり始めていた頃のことだ。仕事を終えて夜遅く帰宅した私は、何気に付けたテレビで、たまたま放映していたW杯地区予選の試合中継を見たのがサッカー観戦の始まりだった。それがどこの国との試合で、どちらが勝ったのか忘れてしまったが、なんとなく眺めていた画面に、やがて釘付けになり、終盤ではコブシに汗を握るほど夢中になっていた。
面白いのだ。野球のように今度はこっちの攻撃であんたは守る方、とかいう流れが無く、相手ゴール前まで攻めていたと思ったら、次の瞬間には自分のゴールに向かってシュートを打たれている。このスリリングさが、たまらなく私を魅了した。国際試合というのも大きい。自分が応援すべきチームがある、ぜひ勝って欲しいと願うチームがあるというのは、やはり見る者を興奮させる。野球の場合、私には特に応援したいチームがないことが、もう一つ夢中になれない要因ではないだろうか。多分、大阪や広島や名古屋で生まれ育っていたら野球も好きになっていたかもしれない。
よく解らないが、とにかくあと何試合か勝てば日本はW杯に出場する権利が生まれると聞いて、それから試合のある日は必ずテレビの前に座るようにした。そして、この試合に勝てばW杯進出決定という試合、対イラク戦を迎える。ピッチにはカズやラモスがいた。ゴンこと中山もベンチから叫んでいた。2-1、日本リードで時計の針は90分を回った。勝てる、これでW杯出場決定だ、誰しもがそう思ったそのロスタイム、イラクの同点ゴールが日本のゴールネットを揺らした。テレビのアナウンサーは絶句し、ただ歓声と怒号だけがスピーカーから流れ、「イラクゴール」「2-2」というテロップが虚しく流れていたのを、今でも鮮明に覚えている。ドーハの悲劇だった。
当時Jリーグには、私にはさほど応援したいチームがなく、異常なまでに盛り上がる世間とはうらはらに、私のサッカー熱はいともあっけなく冷めていった。しかしその間、日本のサッカーレベルは確実に向上していた。そして迎えた98年W杯フランス大会。4年前のドーハの悲劇を思い起こしながら、前回あそこまで行ったのだから、今回は楽勝で地区予選を突破できるだろうと私は安易に思っていた。が、それほど甘くはなかった。日本のサッカーが成長している間、世界もまた成長しているのだ。当たり前と言えば、至極当たり前のことだ。
次の2002年には日本と韓国のW杯共催が決まっている。ホスト国は地区予選を免れるので次の大会はいきなりW杯本番から始まる。しかし、初めてのW杯出場がホスト国のシードではあまりにも情けない。是が非でもこのフランス大会は、日本は自力でW杯への出場を決めなければならない。
フランス大会のアジア地区予選は本当に苦戦した。監督の更迭もあった。勝てない日本チームにサポーターが卵を投げつけたシーンもあった。絶対的な日本のエースと信じられていたカズも試合から降ろされた。そしてマレーシアで行われたイラン戦。もう後がないところまで追いつめられた。この試合に勝たなければ…。遠くマレーシアに日本のサポーターが集結して、まるでホームゲームのような試合になる。それだけのお膳立てを揃えて、なお、試合は2-2の同点のまま90分を終えて延長戦へ…。
延長Vゴールへと突入する前、日本チームは円陣を組んだ。それは選手だけでなく、ここまで共に戦ってきた監督を初めとしたスタッフ全員で組んだ大きな円陣だった。石にかじりついてでも勝つ! その意気込みの現れだった。見ていて胸が熱くなった。そして岡野が決めた。感動の瞬間。W杯初出場を自力で決めたのだ。
それでも世界の壁は厚かった。予選リーグ3連敗で敗退。これが日本の現実だった。得点も唯一ジャマイカ戦の1点限りで、日本の98年W杯は終わった。岡田監督はその時記者団に向かってこう言った。
「日本が世界に追いつくには、10年単位の時間が必要だ」
過去、ホスト国が予選を突破できなかったことは無い。4年後のW杯でホスト国日本は、決勝トーナメントに進むことが絶対的な使命となる。10年単位の時間を4年に縮めなければならない。日本はフランス人の監督を招いた。フィリップ・トルシエ。全てをこの人物に託した。
「スピードは申し分ない。技術もある。世界と比べて決して見劣りしないこのチームが、世界を前にすると勝てないのは、闘争心が足りないからだ。」
トルシエは徹底的に選手にファイティングスピリットをたたき込んだ。自分のやり方に異論を唱える者は躊躇なく排除した。選手や関係者との軋轢もあった。解任騒ぎもあった。しかしどこまでも自分のやり方を貫いた。
世界を肌で感じてこい、と海外移籍を奨励した。中田に続いて小野、川口、稲本らが飛び出した。選手同士を競わせた。レギュラーメンバーはギリギリまで明かさなかった。その最たる結果が「黄金の左足」とトルシエ自身も認める中村俊輔のレギュラー落ちだった。代わりにゴンや秋田を入れた。
ゴンは闘争心の固まりだった。ドーハではイラクに同点ゴールを決められ、芝生に崩れ落ちたが、その2-2のうち1点はゴンが決めている。フランス大会で唯一の得点もゴン、その人だ。しかも骨折を押してのゴールだった。Jリーグでのゴール数はギネスブックにすら載っている。35才という年齢は、あの激しいスポーツでは限界に近い。所属チーム磐田の監督だかに、「お前ももういい年なんだから、少しは休め」と言われ、こう返した男だ。
「いい年なんだから休めない。休んだら若い奴らにドンドン置いて行かれる。」
残念ながらゴンや秋田の活躍をそれほど見ることは出来なかったが、日本は今年、見事に決勝トーナメントまでコマを進めた。運も味方した。日本が入った予選グループは他のグループと比べれば、かなり対戦相手に恵まれた。6月という季節も日本には有利だった。高温多湿の日本の気候は海外の選手の動きを鈍らせた。そして何より、世界一のサポーターがスタジアムをジャパンブルー一色に染め上げた。しかし、2勝1分け、負け無しの成績でグループ予選を突破したのは、まぎれもなく日本の実力無しにはあり得ない。
10年単位の時間がかかる、と言われたこのチームが、わずか4年でここまで来た。世界に引けを取らない、強い日本がそこにいた。サッカー後進国と言われ、W杯出場だけが精一杯だった面影は全くなかった。惜しくも決勝トーナメント1回戦で敗退してしまったものの、日本チームの活躍は日本中を狂喜乱舞させ、世界を「あっ」と言わせた。
日本の2002年の挑戦は終わった。最後まで自分の哲学を貫いたトルシエは、雨の宮城スタジアムで涙を流し、「4年間の冒険は終わった」と言った。
そう、ここまでは冒険だったのかも知れない。あるいは奇跡だったのかも。しかし、ここからは違う。確実に力を付けた日本のサッカーは、見事に世界の仲間入りを果たした。そして4年後、2006年ドイツ大会へのスタートを今切ったのだ。
ガンバレ、日本!
その時までには、私もルールくらい覚えておくから(笑)。
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