HITORIGOTO
indexへもどる
才能って何だ



 「ご職業は?」と聞かれて答えに戸惑うことがある。「グラフィックデザイナーです。」と答えると、なんだか妙に格好良すぎて、ちょっと気恥ずかしいのだ。実際私の仕事は、世間が想像するカタカナ職業へのイメージとは随分離れた地味な商売だ。もっともカタカナ職業なんて、現実はみんなそういう物だと思うが。

 最近は「印刷関係の仕事です。」と答えるようにしているが、それでも「印刷のどんな仕事ですか?」と突っ込まれれば、仕方なく「デザインをしてます。」と答える。そうすると、必ずと言っていいほど「へぇ〜」とか「ほぉ〜」とかの感嘆詞のあとに「才能がおありなんですね。」と続く。実は私はこの台詞がたまらなく嫌だったりする。

 例えばゴルフのタイガーウッズを指して才能があると言うのなら、私はそれを否定などする気はサラサラ無い。確かに世の中にはそういう天才がいる。しかし何を間違っても、私にはそんな特別な能力なんてものは備わっていない。社交辞令として、私に「才能が…」なんて言うのだろうが、それはハッキリ言って嫌味にしか聞こえない。

 そもそも才能ってなんなのだ。才能が生まれ持った特別な能力だとしたら、私にはそんなもの無いし、この商売にそんなもの必要ない。あるとしたら向き、不向き程度だろう。
例えば私は小さい頃から運動が苦手だった。そんな私に「今からオリンピックを目指せ」などと言われても、それは何世紀練習を続けても不可能だと思う。つまり私は運動選手には向いてない。逆に私は幼い頃から絵を描いたり、工作をしたり、とにかく物を作るということは好きだった。なので今のこの職業は、私にとても向いていると思う。でもそれは、才能があると言うのとは違う気がする。実際、私はセンスが良い方とは言えないし、手先も不器用だ。ただ「好き」というだけ。つまり下手の横好きがなんとなくここまで来てしまった、というのが正直なところ。

 自分がこれに向いているとか、こういうことが好きという程度の物は誰にでもあるはずだ。それを指して才能があるというのなら、それは誰にでも何かの才能があると言うことであり、とりたてて特別なことでは無い。なのに「才能がある」という言葉は、何か他人には真似できない不思議な能力を持っている、みたいな語感があって、「才能がおありなんですね。」なんて言われると「無い、無い、そんなもん私にあるはずが無いって。」と返したくなるのだが、話がめんどくさくなるのでいつも「いやぁ…」とか適当にお茶を濁す。で、それを強く否定しない自分が、なんだかまるで「そうだよ、オレにはアンタには無い特別な能力があるんだよ。」と言っているみたいで、嫌になったりもする。

 ただこれだけは言える。好きであり続けること、これは大切だ。好きでいられれば辛いことも我慢できる。嫌なことでも根性で努力して力を蓄えることは可能だが、それを好きで楽しく身につけていく人には絶対かなわない。そういう人は努力なんてしている自覚がなくて、ただ夢中になって好きなことをしているだけで、気が付いたら他人より秀でていた、ということがあるだろう。それを指して才能と呼ぶのなら、私は多分「そうだ」と思う。

 確かに私のこの商売も好きでなければ続けられない職業かもしれない。でも私はハッキリ言ってもう飽きた(笑)。それでも続けているのは、他に出来ることが無いと言うことと、やはりこの商売から離れられないくらい好きなのかも知れない。
多分私はデザイン界のタイガーウッズにはなれないだろう。才能という言葉がそういう物を言うなら、間違いなく私には才能が無い。でもそんな大それた物ではなく、誰しもが持っている好きなことという感覚であるなら、私にも少しは才能があるのかも知れない。

 そんな言葉の定義なんて本当はどうでもいいんだけど、今年の1月から4月にかけて入院生活を送っていたとき、同室になった他の患者さんから口々に「才能が…」なんて言われたものだから、ちょっと気になってしまっている。

backindexnext