もう何年前になるのだろう。まだ私がアシスタントだったころ、私の面倒を見ていてくれた当時の師匠であり上司である、H氏のある台詞を今でもよく思い出す。とにかく要領が悪く、なかなか仕事を覚えられない、正直言って「つかえないタイプ」だった私に、根気よく丁寧に色々と仕事を教えてくれた方である。
何の仕事をしていた時だったか忘れてしまったが、ふとH氏が私に言ったその言葉は、今では私のデザインの基本中の基本となっている。
「いいか木村、デザインっていうのは使う人の立場で考えると、どうすればいいのか自然と見えてくるんだ。」
なんだ、そんなこと…と思うかも知れない。とてもよく言われるような台詞だし、実際、その時私もたいして深く考えもしなかった。この言葉の意味を実感するようになったのは、私がその会社を退社してH氏のもとを去り、数年してからのことだ。今では新しい仕事に取りかかる前には、必ずこの台詞を起点にはじめることを心がけている。
例えば名刺のデザインを例に考えてみよう。名刺なんて名前と住所と連絡先が間違えずに書いてあれば、それで十分機能する。しかし名刺には名刺特有の役割が存在したり、使う人によっては独自の機能を持たせた方が良い場合もある。どういう事かと言うと…
名刺は初対面の人に挨拶代わりに渡す物である。つまり大げさに言えば、その人の第一印象を決定づけてしまう可能性もある。あなたがお客さんで、木村というデザイナーに仕事を依頼しようとしているとする。初めてあうこのデザイナーと名刺交換をした際、とてつもなく陳腐な名刺を渡されたらどうだろう。この人にデザインの仕事を頼んで大丈夫か?と感じないだろうか?
人材派遣の営業マンの名刺が角丸でピンク地の名刺だったら、風俗店の女の子を連れてこられるのではないか?とか考えないだろうか?
これは極端すぎるかもしれないが、そのような事がありうるから、そこにデザインの必要性が生まれてくるのだと思う。名刺交換を単なる儀式と考えるか、営業活動の一つとしてとらえるかで、その人にとっての名刺のデザインの重要性が現れるのではないだろうか?
ある印刷会社の人の名刺に、白いコート紙(光沢のある紙)に白の地紋が印刷されているのを見たことがある。一見わからないのだが、よく見ると光の反射の仕方の違いで、その地紋の存在に気が付く、という仕組みだ。「さすがに印刷屋さんの名刺はひと味違いますね」と感心させられた。また初対面のお客様と商談に持ち込むための、きっかけ作りにも役立っているのだと、その営業マンは言っていた。営業マンは自分と自分の会社を売り込んでナンボの商売である。名刺にちょっとした仕掛けを作ることで、自分の会社の技術や力量をアピールすることに成功してるケースだと思う。
名刺にはもう一つ大事な役割がある。言うまでもなく、連絡を取りたいときに住所や電話番号を確認するためのツールとしての役割だ。
知り合いのフリーのカメラマンの名刺は名前と電話番号がやけに大きい。理由を訊ねてみると、その人のお客さんには年輩の方が多いそうである。なるほど、と思った。
また、本人は嫌うかも知れないが、セールスを主体としているなら、名刺に顔写真は必須だろう。顔を覚えて貰うことが、その人達にとっては何より大切なのだから。以前我が家に車の売り込みに来た日産のMさんはとてもいい人で、次に車を買い換えるならぜひその人から買おうと考えたことがある(結局買わなかったけど…笑)。似たような経験は誰にでもあるのではないだろうか?Mさんの名前は忘れても顔は覚えている。日産のあの人、って具合に。
このように、その人や、その人の会社の個性を演出したり、その人の事情にあわせた機能や付加価値を、たかが名刺一枚に込めることが出来るのである。そしてそれは、「どんな人が、どのように使い、どうするともっと効果的なのか」という問いに対して導き出せるものだ。もちろん全ての人や全ての業種に当てはまるわけではないが、使おうとしているシーンや背景を考えれば、どんな形態やデザインが良いのかが自ずと見えてくるのは、名刺に限ったことではない。カタログを作るなら、どんな人がそれを見るのか、どんな使われ方をするのかと考えれば、文字の大きさ、色使いはもちろん、インデックスの付け方、引出ツメの要・不要、アイテムの並べ方に至るまで方向性が見えてくる。そのような考えの上に成り立ったデザインは、プレゼンテーションもしやすい。「こういう理由からこのようなデザインにしました」と理屈づけて説明するのと「なんとなく、かっこいいでしょ」とでは大きく違う。私もアシスタントだった頃は自分の親と同世代のお客様に対し、自分の制作物をアピールするのはとても難しかったことを覚えている。
もちろん見た目は大切である。しかしデザインは芸術ではない。見た目以上に大切なのは、その商品やアイテムが、クライアントの目的を達成させるための手助けになることであると思う。商品が売れるように、商品の良いところをターゲットに対し、どうアピールすることが有効なのか、円滑な営業活動をするためには、どのような営業ツール(名刺や会社案内)が良いのか、等々。これが「見た目」以上に大切なデザインの「きも」だと私は思う。
簡単そうに思えて、実は結構これがむずかしい。しかしデザインに、この骨になる考え方がないと、まったく説得力のないものになってしまう。少々話がそれるが、昔よく言われた台詞に「若いんだから頭が柔らかいだろ?柔らかい頭で良い物を考えてよ」というのがある。同業者なら一度は言われたことがあるのではないだろうか?しかし、これは全く違うと私は思う。アシスタント時代の私には、このような考え方はもちろん、デザインのノウハウなどの知識も無かったので、まず、何をどうして良いのかさっぱりわからなかった。骨が出来ていないデザイナーには、固いも柔らかいもない。発想の糸口さえ見つけられないのだ。結果、どこかで見たことのあるようなデザイン処理で、紙面を埋め尽くすことしか出来ない。一度とことん固まって、そこから一本骨を残しつつ、どれだけ柔らかく崩していけるかが、デザイナーの力量だと思う。(私はいまだに、そこでもがいている)
だいたいデザイン処理なんて、丸か四角か三角か、縦か横か斜めか、程度の組み合わせでしかない。(最近はこれに、出っ張る、引っ込む、影がつくが加わった…笑)あっという間にネタが尽きる。しかし必然性を説明できる丸なら、「また丸?」と突っ込まれても、「ここは丸がいいんです」と言いくるめる(?)こともある程度は可能だ。この必然性を導き出せるのがH氏の言った「使う人の立場で考える」ということだと思うがどうだろう?
|