長引く不況を打開するためのひとつの手段なんだか知らないが、祝祭日を月曜日に移動する「Happy Monday」という制度が実施されてからしばらく立つ。このページを書いている2001年10月8日も、本来10月10日の体育の日が今日にずれた「Happy Monday」の日だ。私の仕事のノロさが原因なので、別にここでグチを言うつもりはないが、今日も私は事務所へ仕事を片付けに出勤している。
今朝のテレビでアメリカがアフガニスタンに攻撃を始めたことを伝えていた。
とうとう始まってしまった…。
ニューヨークのビルにテロリストが飛行機で突っ込んで、いともあっけなくビルが崩れ去る光景は、まだ生々しく私の脳裏に焼き付いている。そして何の罪もない人々が惨劇に巻き込まれた悲しみや悔しさは、あれからずっと私の中で黒いとぐろを巻いて居座っている。
こんな馬鹿なことが起こっていいものなのか? 崩れゆくビルの映像はあまりに現実離れしていて、我が目と耳を疑ったのは私だけではないはずだ。後にテレビで流れた、たまたま飛行機に乗り合わせた人の家族へあてた電話の録音は、はかりしれないほどの恐怖に直面しながらも、残されるであろう家族に対する思いやりの深さに、胸をかきむしられる。
あまりにも酷すぎる。許されるべき事ではないのは当たり前だ。しかし私は心のどこかで、この事件が「戦争による報復」なしで解決することを祈っていた。戦争というものがいかに愚かな行為で、どれだけ人を悲しみや憎しみで打ちのめすことになるのかは、今までの歴史のなかでさんざん学んで来たはずだ。暴力に対して暴力で応酬することは、また新しい犠牲者を生み出すだけで、中東の何の罪もない人々に、悲しみを押しつける事になる。
もちろんニューヨークやワシントンで犠牲になった多くの人々のことを思うと、正義の名のもとに戦争を始めてしまったアメリカを、私に非難する権利は無いかも知れない。そして、生まれてから一度も「平和」を体験したことのないアフガニスタンの人々の気持ちを、私が想像でとやかく言えることでは無いことも知っている。
しかし、これだけは言える。テロはもちろん、戦争だって大量殺人以外のなにものでもない。人が人を殺すのに正義も聖戦も、肌の色も、信じる神様の違いも関係ない。だいたい「人を殺せ」という神様がいるはずも無い。
どうしても殺し合いがしたいのなら、どこか無人島で2人だけでやってくれ。お願いだから関係のない無力な人々を巻き込まないで欲しい。人間はチェスや将棋の駒じゃない。「正義のため」「聖戦に参加を」なんて台詞は、「お国のため」「天皇陛下万歳」と、意味もなく尊い命を投げ出させた、かつての日本の教育と何一つ変わらない洗脳にすぎないではないか。
これは、太平洋とユーラシア大陸の向こう側で起こっている、つまり我々日本人にはあまり現実感の無い戦争だから言える「きれいごと」かもしれない。またそんな「あたりまえのことを、何を偉そうに」と思われるかも知れない。でも、そのあたりまえのことを、なぜ一国を代表する大統領が出来ないのだろう。テロを根絶するのはわかる。ぜひそうして欲しい。しかし「戦争」以外にも選択肢はあったのではないだろうか。
私は数年前、ベトナムを旅行した。ベトナムはかつてアメリカに戦争で勝った唯一の国だ。ホーチミン市内にある「戦争博物館」で見た、とてもまともに直視できない惨状を映し出した数々の写真は、人と人が殺し合う戦争が、いかに愚かなことかを雄弁に物語っていた。アメリカはあれから何も学んでないのだろうか。忘れてしまったのだろうか。湾岸戦争で圧倒的な勝利を収めたことで、近代戦争なら犠牲者を出さずにすむとでも思っているのだろうか。
そして私が生まれる前、この国でも惨劇は起きていた。広島や長崎では、過去日本人がいかに愚かなことをしたのか、それがどのような悲劇を引き起こしたのか知ることができる。その中で日本人は「2度と人殺しの道具を手にしてはならない」という戒めを、自らに課したはずではなかったのか?
それなのに何故、我が国の総理大臣は早々に「参戦」を宣言してしまったのか。後方だろうが前線だろうが、人殺しに参加するのには変わりはない。だいたいこの国に戦艦が存在すること自体が間違っている。前回の選挙で、「この人なら…」と思ってしまった自分が悔やんでも悔やみきれない。
秋の少し冷たい雨が降る東京。皮肉にもHappy Mondayに始まってしまったこの戦争に、テレビの前で祈ることしか出来ない自分がいる。
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