HITORIGOTO
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発想のバックボーン



 幼い頃、親にねだって大阪の万博に連れて行ってもらった記憶がある。今考えるとお世辞にも裕福とは言えなかった我が家の台所事情では、東京から家族で大阪万博を見に行くのは、結構たいへんだったのではないかと思うが、子供はそんなことはいっさい関知しないものだ。
正直言うと、実は私は万博にはあまり興味が無く、大阪までの移動に新幹線に乗りたい一心でねだったような覚えがある。どういうわけか古今東西、男の子はみんな乗り物が好きで、ご多分に漏れず私もその一人であった。当時走り初めてからあまり歴史のない「夢の超特急」と言われていたその流線型の列車に乗ることだけが目的だったのだ。今にして思えば、なんたる親不孝者だろう(笑)。

 で、当の万博は、すさまじいばかりの人混みと、岡本太郎氏が作った太陽の塔とかがあって、アポロ何号かが持ち帰った「月の石」がうやうやしく展示されていたのを覚えている。そんなもん、たまたま月にあっただけの「ただの石ころ」なわけで、苦しい家計をやりくりしてまで大阪へ出向き、何時間も行列に並んで見るほどの物じゃ無かったのでは…なんてことを言うと、きっと親は烈火のごとく怒ると思うので未だに言わずにいる(笑)。
そういえば「動く歩道」なんてのもあった。何のことはない昇らないエスカレーターだ。今なら空港などでよく見かけるヤツだ。とはいえ、エスカレーター自体が珍しかった当時は、その程度でかなり話題になったんだから、のんびりした時代だったのだと思う。

 大阪万博は戦後の好景気の象徴で、イベントとしては大成功だったのだろう。確かに盛況だったようだし、あの時代ならあの程度のことでも日本人は喜んだと思う。それに味を占めたのか、それとも「あの夢をもう一度」なのかは知らないが、今でもナントカ博というのが日本のあちこちで開催されているようだ。サラリーマンデザイナーだった頃、仕事で旅行代理店の仕事をしていた関係で、それらのパンフレットをいくつか作ったことがあるが、どれもパッとしない印象だった。(関係者の方がここを読んでいたらごめんなさい)

 で、ようやく本題。去年、インターネット博覧会、通称インパクという催しがあったことは、みなさんご存知だろう。2001年1月1日から12月31日の1年間、期間限定で行われたWebの博覧会だ。当時の経済企画庁長官だった人が旗を振り、我が国のIT文化の向上に寄与すべくなんたらかんたら…という趣旨で行われたものだったと記憶しているが、はたしてあれは成功だったのだろうか?
確かにインターネットというバーチャルな空間で行うイベントであれば、他の博覧会に比べてかなりの低予算ですみ、企業も出展しやすいし、個人ですら開催側に参加できる。インターネット先進国を目指す政府の方針としても、なかなか良い発想だったとは思うが、なんというかこう、私にはあまり盛況だったようには思えないのだが…。

 実はこのインパク、私も少し絡む機会があった。いや、正しくは絡むはずだった。ひょんなことから、とある企業のパビリオン(参加企業サイトをそう呼んでいた)のデザインを頼まれたのだ。インパク自体に少々疑問を持ってはいたが、しがないフリーとしてはかなりメジャーな仕事ではある。で、喜んで受けさせてはもらったはいいものの、どうも仕事の進行管理がうまく機能していないらしく、翌年1月1日スタートだというのに、12月に入っても具体的な話がまとまっていないという状況になり、これでは私には開催にこぎ着ける責任が持てないと、土壇場になって降ろさせてもらった。

 もちろん、私のような何処の馬の骨とも解らないデザイナーに、そんな有名企業からメジャーな仕事が直で舞い込むはずが無く、企業-代理店-システム制作会社-デザイン会社を経由して私の所までこの話は流れてきた。つまりヒヒマゴ受けだ。
そのせいなのか、8月にこの話をいただいてから12月にお断りするまで、私は打ち合わせに2回しか参加させてもらえなかった。代理店とシステム制作会社の間で、あーだこーだと話が行ったり来たりするばかりだったらしい。

 代理店というのは、泣く子も黙る世界一の代理店だ(わかりますね・笑)。2回の打ち合わせにも、その代理店の担当の方が参加されており、私としてはいい機会だから、その代理店の手法を観察させてもらうつもりでいた。しかし結局、打ち合わせは終始システムやプログラミング関係の話がほとんどを占めてしまい、私の出番は全くなかった。まぁ、所詮私などそんなものか。
インパクの趣旨としては最新の技術を使い、いかにWebの可能性をアピールできるか、そのためには極端な話、プラグインだの重さだの何でもアリらしい。そういう経緯からか、システム制作会社がイニシアティブを握っていたのだ。

 インパクの参加企業サイトは、できるだけ企業色を無くすことが推奨されていた。つまり企業の宣伝は自分のHPでやりなさい、と言うことだろう。私が制作する予定だったパビリオンはテニスのサイトと決まっていて、理由はその企業が現役有名プロテニスプレーヤーのスポンサーだったからだ(安易だなぁ…)。

 そうした中、ただ一つ、さすがに大規模な代理店は違う、と実感したことがあった。それは、次の問題への対処方だった。その問題というのは、これからテニスのサイトを作るというのに、実は制作スタッフ一同、テニスに造詣の深い人間がいない、というものだ。私はまったく経験がないと言っても良いくらいだし、他の各人も趣味でちょっとやるくらいで、日本国発世界に向けてテニスのサイトを発信するには、あまりにもテニスのことを知らなすぎるわけだ。

 もしこういう状況に置かれたとしたら皆さんはどうするだろう。ちょっと考えてみて欲しい。仕事をしていれば、そういう状況に置かれることだってあるはずだ。言っておくが予算はふんだんに有るわけでもない。日本政府のキモ入りで作る、有名な企業にふさわしい内容のテニスサイトを作らなければならない。しかし自分を含めてテニスに詳しい人はいない。さて、あなたならどうするだろう?
私なら多分テニスのHowTo本、雑誌、それから他のテニスサイトを漁って、それらしく作ることくらいが関の山だろう。もしくは「私には荷が重すぎる」と断るか。他にはどうして良いのか全く思いつかない。個人で細々とやっていると、このあたりが限界だと思う。

 で、その代理店の方はどうしたかと言うと、テニス雑誌の編集部をまるまる抱き込んで、全面的に協力をお願いしたのだ。えっ? そんなことしたら膨大な予算がかかるのでは? と思うかも知れないが、これがなんとタダ。なぜかと言うと、インパクは1年間の期間限定サイトだから、1年たってしまえば、あとは不要になる。インパク終了後、そのサイトを雑誌社に無料で譲る代わりに制作に協力してくれ、と持ち込んだという。
なるほどなぁ…。と私はいたく感心したのだ。もちろん超大手広告代理店の持つコネや背景があってこそ出来ることかも知れないが、こういう発想は私には到底できない。普段在籍する環境の違いを考えれば当然とも言えるが、仕事を発注する側から見れば、そんなことは関係ないわけで、同じ予算でどれだけいい物を作れるのかが、力量の差だ。
もちろんその代理店と同じ土俵で勝負したら、私がかないっこないのはよく解っている。でも、ことデザインに限って言えば、勝てないまでもこっぴどく負けることもない、という気が実は私の中にあった。今回だって勝負したわけでもないし、負けたわけでもない。が、雑誌編集部をまるごと抱き込むなんて発想は、私には絶対思いつかないわけで、なんというか頭を思いっきりひっぱたかれたような感覚だった。「こりゃ、正直言ってかなわんな」という感じだ。

 もし私がその代理店の社員で、そこで何年もディレクションをとっていたなら、十分考えつく発想だったかも知れない。でも私は小規模零細なデザイン会社を渡り歩いてきた経験しかなく、そこでとっていたディレクションはそういうレベルのものではなかった。まさに育ってきたバックボーンの違いを見せつけられた気がした出来事だった。

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