HITORIGOTO
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読書の秋



 突然だが、なぜ「読書の秋」なんだろう? 別に読書の冬でも、読書の春でも、読書の夏でも構わないと思うのだが…。

 自慢じゃないが、私は現在ほとんど本を読まない。マンガ雑誌とコンピューター雑誌を除くと、活字を読むのはインターネットか仕事の原稿くらいだ。決して嫌いなわけでは無いが、どうにも読書は億劫なのだ。

 例えば、すごく面白い本を読み出してしまうとする。すると、私の性格上、一気に最後まで読んでしまわないと気がすまなくなる。仕事をする時間はもちろん、寝る時間ももったいない。しかし、そう言うわけにはいかないので、仕方なく本に栞を挟んで読書を中断することになる。中断して仕事をしていても、早く続きを読んでしまいたくてイライラしてしまう。分厚い本だと、それが毎日続くことになる。それがたまらなく嫌なのだ。 そうなることが分かり切っているので、本の最初の1ページ目を読み出すことに抵抗を感じるのだ。「この本は面白いかも知れない。でもこの1ページ目を読み始めてしまうと、あのジレンマの日々が始まってしまう…。」そういう思いが頭の中を交錯する。それを押し切ってまで、1ページ目を読み始める情熱が私の中には無いのだ。



 あれは小学校5年生の2学期の始まりの時だった。担任の先生が「何か2学期中に成し遂げる目標を決めなさい。逆上がりが出来るようになるでも、跳び箱が跳べるようになるでも、本を何冊読むでもいいから。」と生徒に無理矢理、「目標を決める」という行為を押しつけた。ありがちな話だ。
しかし、そんなことを突然言われて、「じゃぁ、ボクはこれをします。」などと、すぐに答えが出せるものではない。なのにクラスの生徒全員に、その場で決めた目標を発表させると言うので、仕方なく私は先生の出した例題に沿って「本を何冊読む」という目標を立てることにした。で、何冊にしようかと思い、私は安易にと言うか、何も考えず、キリの良い数字で「100冊」と決めて発表した。

「2学期中に本を100冊読みます。」

教室がどよめいた。先生も目を丸くした。私は100冊くらい別に何でもない、と思っていたので、その反応が不思議だった。小学生の頃は1日がとても長く、まして「2学期中」などという期間は、気が遠くなるくらい先の話に感じていたのだ。何しろまだ夏休みが終わったばかりで、体育の授業ではまだ水泳をやっている暑い季節だ。これから秋になり、冬が来て、正月間近の冬休みまでに読めば良いのだ。たかが100冊。なんでそんなに驚くんだろう。その時はそう思っていた。

 その晩、ちょっと冷静になって計算してみた。今9月だから、2学期が終わるまで、9・10・11・12…。4ヵ月。ひと月30日として120日。おや…?

 一日一冊ペースで読まないと間に合わないことに、その時になってはじめて気が付く。
一日一冊…。学校が終わったら、そりゃ、友達と遊びたい。帰ったら宿題もやらなければならない。もちろんテレビも見たい。その上に一日一冊本を読む。。。
あの時、教室がどよめいた理由が今頃になって解った。そして自分の愚かさを後悔した…。

 目標を達成できなかったからと言って、それは責められる事ではない。要は、目標に向かって努力することが大切なわけで、先生はそれを生徒に実践させたかったということであり、まぁ、頑張ってみたけど出来なかった、ということもあるわけで…。いや、むしろ、無理と解っていても、大きな目標を立てるのは、ある意味、素晴らしいことで…。などという言い訳は、小学生の私には思いつかず、仕方なく翌日から近所の図書館通いが始まった。

 少ない知恵を振り絞って考えた。どうすれば楽ができるだろう。いっそ、少年ジャンプや少年サンデーも一冊と数えてしまおうか…。いや、しかし、それはいくらなんでも…。そうだ、薄い本を一日数冊読めば、だいぶ数が稼げる。
図書館の小学校低学年用コーナーで、文字の大きい、薄目の本を狙って読み出した。当然ながらそのコーナーには、自分よりはるかに小さい子ばかりがひしめいている。その場で読むのも、借り出すのも、さすがにちょっと気恥ずかしい。でも背に腹は代えられない。

 しばらくはそれで数を稼ぐことに成功した。しかし、それも長くは続かなかった。何しろ絵本を除いてしまうと、それほど本らしい本が揃っていなかったからだ。何よりそんな姑息な自分が、少々虚しくなってきた。仕方なく覚悟を決めて、年相応の本を借りるようになった。友達と遊んだ後、図書館に通っていたので、当然、図書館でそれらの本を読み切れるわけもなく、借り出して持ち帰り、夜、家で本を読んだ。
友達とは毎日ちゃんと遊んだ。大好きなアニメもしっかり見た。宿題もしょうがないので、それなりにやった。そして、それから本を読んだ。今思えば私の夜更かし癖はあの頃付いたのかも知れない。
と言うか、この頃から私はかなりの意地っ張りだった。あの時のクラスみんなの反応や先生の顔を思い出すと、ここで諦める、ということが出来なかった。

 理由も知らず、狂喜乱舞したのは私の両親だった。勉強嫌いの息子が、突然本を読み出した。しかも取り憑かれたように夢中になって、毎日色んな本を借りてきては、むさぼるように本を読んでいる。ここはひとつ息子のために、ためになる本を買い与えてあげるのが親の努めだ、とでも思ったのだろう。一冊数センチはあろうかという「シートン動物記」を全六巻買って来やがった。
私はとにかく数をこなさなければならないのだ。そんな、一冊読むのに数日かかりそうな本を読んでいる暇など無いのだ。まったく余計なことを…。

 でも読んだ。なぜだか解らないけど、とにかく読破した。もしかしたらその頃、読書自体が好きになっていたのかも知れない。確か3日で二冊くらいのペースで読んだ気がする。それはもう、必死だった。やっと六巻すべて読み終えた頃、こともあろうか母親は、今度は「ファーブル昆虫記」全何巻かを買って来てしまった。これには、さすがの私も参った。頼むからやめてくれと事情を説明して、今後二度と分厚い本を買ってくれるな、とお願いした。理由を知った親は爆笑していた。

 冬も近づいたある日、私はとうとう100冊目の本を読み終えた。立派だ。我ながら立派すぎる。鼻息も荒く、あのとき目を丸くした先生に報告した。先生はまた目を丸くして驚いた。2学期の最後の日、もらった通信簿には「よくがんばりました」と一言添えてあった。

 しかしその後、私は全くと言って良いほど本を読まなくなった。もうあんな思いはコリゴリだったのだ。そしてそれは、そのまま現在に至る。今はさすがにあの時の苦労を思い出してどうのって言うことは無いのだが、読み始めると最後まで一気に読まないと気がすまないのは、あの時のトラウマかもしれない。そして本の1ページ目を読む情熱は、あの小学校5年生の2学期に使い果たしてしまったのかも知れない。

 小学生の子供をお持ちの皆さん。「無理な目標は、無理して達成しても、あまり良いことはない」とお子さんにお伝えください。

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