HITORIGOTO
indexへもどる
流浪の道
--北京編--




もう今から14年も前のことになりますが、シルクロードを旅行したことがあります。北京inで、西安、敦煌、烏魯木斉、吐魯蕃、蘭州とまわり、上海outというルートでした。いっとき海外旅行に嵌った時期があって、あちこち出かけたのですが、中でもこのシルクロードは一番印象深い旅行でした。その時の旅行記を、いつかどこかに書きたい、書きたいと思っているうちに、早14年(笑)。当然ながら詳細は忘れてしまってますし、もうしょうがないかな、と諦めていたのですが、最近あるところに書く機会があったので、それを転載することにしました。



最初にシルクロードへの旅行を計画したのは1989年のことでした。ちょうどそれまで勤めていたデザイン会社を退社して、次の会社を探している所でした。つまりプータロー状態。まぁ、それほど貯金は無かったのですが、まとめて休みを取れるチャンスなど、そうそうありません。これから探して入社する会社だって、まとまった休みが取れるかなんて解りません。なので、もしかしたら海外旅行なんてラストチャンスかもしれない、と思った我々(私と女房)は、思い切って一番行きたいところに行こうと計画を始めました。私はマチュピチュかネパールを希望しました。そして女房がシルクロードを提案しました。2人とも、そういう場所が好みでした。両者一歩も譲らず、なかなか行き先が決まらなかったのですが、女房が最後に放った殺し文句にやられました。

「天空都市の遺跡もいいけどさ、砂漠の中のオアシスで暮らす少数民族って、会ってみたくない?」

ノックダウンです(笑)。
それから一生懸命シルクロードに関するガイドブックや資料を読みあさりました。そして少数民族の住む奥地まで行くには、ツアーに頼るしかなさそうだ、という結論に達します。当時の中国は旅行者に対して自由が効かず、シルクロードなど奥地へ行こうとすると、それこそ数ヶ月の滞在期間を覚悟しなければ不可能でした。なにしろ「今日は乗客が少ないから」という理由だけで、平気で飛行機(国内線)が欠航するお国柄です。本当はフリーで行きたかったのですが、いくらなんでもそんなにプータローを続けている余裕はありませんでしたし、ツアーなら最初から人数も揃っているので、ある程度(これが本当に「ある程度」なんですけど)予定したルートを回れるので、しかたなくパックツアーに申し込みました。ところが、その直後です。あの「天安門事件」が起きたのは…。

ツアーは中止になりました……。

泣く泣く諦めようとしたのですが諦め切れません。ならば香港へフリーチケットで入って、陸路で中国へ。そのままなんとか行けるところまで行ってみようか、とまで、マジで考えました。ネパールという案も再び上がってきたのですが、そこへ女房が体調を崩し、結局、旅行自体を諦めざるを得ない状態になったのでした。

その翌月、新しい就職先が決まり、通い始めました。でもシルクロードはずっと心にひっかかったまま、とうとう消えることはありませんでした。いや、ますますその思いは膨らんでいく一方です。幸い、通い始めた会社はノホホンとした雰囲気で、どうも多少強引に出れば(笑)休暇の融通が利きそうな感じです。次の夏休みを利用して、まとまった休みをお願いしようともくろんだ私は、それ以来、毎朝一番に出社して、意地でも休まず、残業もいとわず、他の人が嫌がる仕事も、土日出勤も進んでやりました。そして頃合いを見て、夏休み前後にまとめて休暇が欲しいと、社長に直談判。ダメなら会社を辞める、とまで言いました。日々の努力が報われたのか、11日間の休暇をGET。晴れて念願のシルクロードツアーへ申し込んだのでした。



北京編

出発日。成田空港にツアーメンバーが顔を揃えました。総勢30名弱。大所帯です。団体ツアーも、つきっきりの添乗員が付くツアーに参加するのも初めての私たちでした。団体行動が苦手な私は、その人数を見てちょっとゲンナリ。もっともこの位の頭数が揃わないとツアーが成り立たないのですから仕方ありません。
空港のロビーで添乗員さんが挨拶をしました。大塚さんという中年男性の方でした。そして挨拶終了後、いきなり大塚さんは私を見て怒り出しました。これから砂漠へ行くのに、水筒も帽子も持ってきてないのか? と。帽子をかぶってないのは私だけでした。所詮、添乗員さん付きの団体旅行とタカをくくっていた私は目が点です。でも、これがかえって、もしかして想像以上にエキサイティングな旅になるかもと、すこしワクワクしだした私でした(笑)。

飛行機が北京に到着しました。いよいよ念願の中国です。シルクロードのツアーなので北京・上海の観光は基本的に含まれないのですが、次の飛行機の都合でこの日は北京に一泊となります。ちなみに今はどうなのか知りませんが、当時は飛行機の詳しい時間は中国側が決めてました。決して日本の旅行代理店で詳細まで決められなかったのです。しかもそのフライトの時間は当日間際まで解りません。なので予定通りのルートを回れるかどうかが「ある程度」なのです。なんでもお上が決める、社会主義国ならではなのかも知れません。

北京で約半日空いているので、その日は故宮観光となりました。でも、まったく中国史に興味の無かった私には、それほど面白い場所ではなかったです…。むしろ万里の長城へ行きたかった…。
故宮

でも思いがけず、それよりはるかに面白い場所へ行くことが出来ました。それは帽子と水筒を買うために少ない自由時間にフラっと入ったデパートでした。デパートと言っても、日本で言うと、西友とかマルエツ程度の規模です。決して西武や東武デパートと言う規模ではありません。それでも北京随一(当時)のデパートだそうです。
そのデパートは2階建ての建物で、衣料品売り場は2階のようです(本当にマルエツみたい・笑)。帽子を探しに階段で2階へ。階段を上がった所は女性服売り場でした。そして、そこでいきなり私の目に飛び込んできたのは……。

試着をするため下着姿になっているおばちゃんでした。

ビックリして、あわてて目をそらす私。何事かと思いましたが、すぐに理解できました。つまり、ここには試着室など無いのです。試着したい人は、店の通路で着替えるんです。恥ずかしげもなく。当然のように。
唖然としました。でも考えてみればトイレにドアも壁もない国です。着替えくらいなんとも無いのでしょう。いきなり中国らしさを体感する出来事でした(笑)。

北京については、もう一つ心に残る思い出があります。このツアー、大塚さんが成田から成田までずっと一緒で、他にinの北京からoutの上海まで中国人の現地係員が同行しました。流暢な日本語を話す、周さんという若い女性でした。そして各地に、もう一人ガイド役の現地係員が付きます。名前は忘れましたが、北京のガイドさんは若い男性で、今年大学を卒業したばかりだと、カタコトの日本語で自己紹介をしていました。
バスで故宮へいく途中、天安門広場を通ります。というか、故宮前が天安門広場です。天安門事件は1年前のこと。まだ、生々しくTVの映像が記憶に残っています。ここはまさにその現場です。実際、故宮観光の後、ちょっと天安門広場を散策していて、多分あの時、戦車に削られたのであろう、石畳の傷跡を見ました。
バスの中でツアー客の誰かが、その若いガイドさんに質問しました。

「あなたは天安門事件の時、広場にあつまったのですか?」

多分、下手なことは迂闊に言えないのでしょう。ガイドさんはしばらく考え、言葉を選びながら、こう答えました。

「国の将来を考えるのは学生の努めです。」

これだけ言いました。ツアー客全員、それ以上は言えないのだろうと理解しました。もちろん彼が天安門事件に参加したことも。

今となっては故宮のことなど、これっぽっちも覚えてません(笑)。でも彼の言った、その一言は、今も私の胸に刻まれています。

つづく。

天安門広場


自転車

backindexnext